[6]サウスウェスト

〜ナバホインディアン居留地にて〜


 「プシュー」
パンクの音で立ち止まり、「チクショー」と言いながら路肩に寄って修理をする。

 赤茶けた大地と刺々しいブッシュが地平線まで続くアメリカ南西部、アリゾナ。
目の前には、アメリカの西部劇で見たことのある早撃ちガンマンや羽飾りを身にまとったインディアンが、いつ現れてもおかしくないような世界が広がっている。

僕が初めて海外を夢見た10年前、最初に思い浮かんだのがこのアメリカの原風景だった。

 当時、「いつか海外を走ってみたい」と母に話し、鼻で笑われてしまった場面を、僕は今でもよく覚えている。
そんなことを思い出しながら、タイヤに刺さった植物のトゲをペンチで引っこ抜き、再び走り出す。

このトゲには連日悩まされたけれども、次第にこの乾いた大地で生きる生命力とたくましさ、その姿形を愛おしくさえ思い始めている自分に気づいた。

ふと上を見上げると、ペンキで塗りたくったような深い青が、どこまでも続いていた。







 アリゾナを含む近隣の3つの州には、アメリカ最大のナバホインディアン居留地「ナバホネイション」がある。

一口に居留地と言っても、その自治権はとても強い。
小さなスーパーに一歩足を踏み入れると、そこにはこの大地のような赤茶けた肌の色をしたナバホ人しか見当たらない。
まるで、どこか違う国に来てしまったようだ。

 近年、ナバホの若者の「アメリカ化」が進んでいると聞いたことがある。

しかし、町で見かけた老婆が身につけていたナバホの装飾品であるターコイズと銀のアクセサリー、そして彼女の顔に刻まれた深いしわから、何も言わずとも部族としての強い誇りと歴史が伝わってきた。



 僕が出会った白人たちとの会話では、「いまだに電気のない暮らしをしている人もいて野蛮だ」「働かないアルコール・ドランカーが多い」などと、彼らに対して批判的な言葉を何度か聞いた。
一方では、「僕たちの暮らしは、とてもエコノミーなんだ」と、仲良くなったナバホ人のジョーが3本しかない前歯を見せながら話す。

インディアン迫害の歴史は、もう遠い昔話のように聞こえるが、いまだにその歴史の後遺症や、白人社会との格差は存在していると思う。

「自由な国アメリカ」

しかし、差別、犯罪、戦争など、さまざまな問題がそこにあるからこそ、人々は本当の「自由」を叫び続けるのかもしれない。





産休を取ってアメリカを回っているドイツ人一家に遭遇。
後ろには赤ちゃんと子供が静かに座っていた。



 居留地内には、テーブル型の台地やビュート(岩山)が不規則に点在する、西部を代表する景勝地の一つである<モニュメント・バレー>がある。その中でも有名な3つの巨大なビュートの迫力には度肝を抜かれてしまった。特に、辺り一面が真っ赤に染まる夕暮れ時、ビュートはまるで燃え上がる炎のようになる。見る者は言葉を失い、瞬きするのも忘れてしまうほどだ。僕自身もビュートの神々しさに惹かれ、3日間もこの場所で身動きができなくなってしまった。

 そして夜には、満天の星空と数えきれないほどの流れ星たち。
地球も広い宇宙の中の一部なのだと、この場所は教えてくれた。インディアンは、精神的な世界やシャーマニズムを信じているというが、この圧倒的な自然環境の中に身を置いていると、そんな不思議なエネルギーが宇宙から伝わってくる気がしてくる。そんなことを、夜空にかかる天の川を見ながら思った。







*アリゾナ州——州都及び最大の都市はフェニックス。アメリカの南西部に位置し、サボテンを含む典型的な砂漠の風景で有名である。現在ではハイテク産業の一大拠点となっており、先住民であるアメリカインディアンの州人口に占める割合は5%。

[5]アメリカン ビッグ ママ

僕を捜したグレーナ


ユタ州の田舎町、ブランディング。公共施設以外にこれといって目立つ建物もない、こじんまりとした町だった。




スーパーの前にあった寂れた公衆電話から日本に電話をかけていた時、

「ヒロ!」

と僕の名を呼ぶ声がした。


振り返るとグレーナが笑顔で立っていた。




「探したわよ。よかったら私の家に泊まっていかない?」




彼女とは、数時間前に図書館で初めて会ってすこし会話を交わした程度だったが、僕のことが気になり町中を捜していてくれたらしい。


そのやさしさに驚きつつ、僕はグレーナの言葉に甘えて彼女の家でお世話になることにした。




もうひとつのアメリカらしさ


グレーナには高校教師の夫マイケルと3人の子どもがいた。


その夜「NBAを観に行こう」とマイケルに誘われ、訳がわからぬままついていくと、着いたのは彼の職場の高校だった。


鍵を開けて教室に入るなり、彼は巨大なスクリーンを壁際に広げ、NBAの試合中継をそこに映し出した。



観ているうちに「教室で勝手にNBAなんか観ていて問題にならないのだろうか?」と次第に不安になってきた。


そのとき教室の扉が「ガチャ」と開いた。

「やばい。守衛さんかも」と思った次の瞬間、「おふたりさん、アイスクリームを持ってきたわよ」と屈託のない笑顔でグレーナが入ってきた。




誰も何も心配などしていないし、リラックスして今を楽しんでいる。

目の前にどんとおかれたキングサイズのアイスクリームを見て、「僕は今、アメリカに来ているんだ」と実感した。




アメリカのハートに触れて


明くる日はハロウィン。

この日は車で町を案内してもらうことになった。


町のあちこちはハロウィン一色に染まり、道行く子どもたちはみなそれぞれのキャラクターに扮して楽しそうに歩いている。




家に戻り、グレーナといっしょにハロウィン恒例のオレンジカボチャでオバケ作りをしていると、さっそく近所の子どもたちが家を訪ねてきた。

玄関には、スパイダーマンや天使の格好をした子どもたちが瞳をキラキラ輝かせて立っている。

お菓子を手渡すと「ありがとう」とだけ言い残し、彼らはまた次の家へさっそうと向かうのであった。




ハロウィンの興奮も一段落し夜も更けて来た頃、僕はグレーナにひとつ質問をしてみた。


「どうして見ず知らずの僕にこんなに親切にできるのですか?」と。


ずっと気になっていたことだった。

すると彼女はニコッと微笑みながら、




「私はあなたから夢を成し遂げようとするパワーをもらっているの。だから、こちらこそ家に来てくれてありがとうと言いたいわ」




テロに戦争。昨今のアメリカを取り巻く状況は決してよいとは思えない。

しかし、僕はこの国に来てからもたくさんの人に助けられている。


アメリカに限らず、「国」ではなく「人」という視点から見れば、宗教や習慣の違いはあるにせよ、根本的な部分は何も変わらないのではないだろうか。

少なくとも僕はそう信じたい。




グレーナたちと別れてからもう一年が経つ。

先日、彼女からメールが届いた。その内容はこうだった。




「私たち夫婦は長年の夢であったアラスカに移住してきたの。そして、ついさっき仕事も見つかったわ。私たちはやったのよ! ビッグママより」




ビッグママ、今度はアラスカで会おう。



この風景。ここまで来たかいがあったなと思う瞬間

片時もブレーキレバーから手を離すことができない断崖の道。
アリゾナ州の隣、ユタ州にあるキャニオンランズ国立公園・シェファートレイルロードのダウンヒル

ユタ州アーチーズ国立公園の中にあるアーチ。
急な斜面を登りきると、忽然と姿を現した。
この国立公園内には無数のアーチが存在する

こんなに大きなアーチもある。
ユタ州にはピカソや岡本太郎も
思わず首を傾げてしまうような不思議な岩が多い。
これが「岩の芸術の州」と呼ばれている所以だ

“ビッグママ”グレーナとマイケルと僕。
最高の思い出をありがとう



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[4]テスリンレイクの畔にて

デニスとの出会い


 カナダとアラスカを結ぶ道、アラスカン・ハイウェイ。

 この道は、太平洋戦争中に作られたといい、ただひたすら1442マイルにも及ぶ道が続いている。


 道中にある150人足らずの小さな村・テスリンの手前で、自転車に乗ったデニスという地元のおじさんと出会った。


 彼は怪我で足を手術したため、リハビリを兼ねて自転車で村まで向かっている途中だった。

 僕らはなぜか意気投合してしまい、彼に村を案内してもらうことになった。


 この村にあるのは、商店・村の歴史館・剥製動物館、それにガソリンスタンドと先住民の歴史館。

 何だか「館」だらけで怪しい感じがしないでもないが、村は澄み切った水を蓄えたテスリンレイクの湖畔にあり、この湖の美しさは特別だった。


 デニスに村を一通り案内してもらったあと、この日は彼の家に泊まらせてもらうことになった。


 「自分で建てたんだ」という彼の自宅は、ドアがうまく閉まらなかったりして手作り感にあふれている。

 居間にある薪ストーブが、何ともカナディアンらしい。


 そのうちデニスは「サーモン漁に行ってくる」と言い残して出かけてしまったので、僕は一人、家の裏にある夕暮れ時のテスリンレイクへと向かった。


虹の美しさに心を奪われて


 そして湖に出たところで、僕の心は完全に奪われてしまった。


 雨など一滴も降っていないのに突然虹が現れ、凪の湖面にも反射して映し出されているのだ。


 辺りは徐々にオレンジ色に染まっていき、刻一刻と色調を変えていく。


 自然が織りなす芸術的な造形美を前にした僕は、しばらくの間その場を動くことすらできなかった。


もし本当に天国があるとすれば、それはカナダかもしれない


ふたりっきりのコンサート


 その夜、元ストリート・ミュージシャンだったというデニスが、ギター片手にオリジナルソングを披露してくれた。


 静まり返る深い森の中を、哀愁漂うオヤジのハスキーボイスがこだまする。

 結局、演奏は2時間にも及んだ。


 そして迎えた3日目の別れの朝。

 

 彼を紹介した新聞の切り抜きと自作のCDまでプレゼントされた僕は、「たまには、オレとここテスリンを思い出してくれよ」と見送られて彼の自宅を後にした。


 今でも耳を澄ませば、あのハスキーボイスが聞こえてくるような気がする。


 遠く離れた海の向こうに、忘れられない人がいる。




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[3]ユーコン川、空と水と森の世界

原野と自然に囲まれた町


 アラスカからカナダへ入国して、最初に立ち寄った町は北西部ユーコン準州の州都ホワイトホースだった。


 大自然に囲まれたこの町は、日本へ帰りたくなくなってしまうほど美しい。

 町中にゆったりとした時間が流れているのは、町のはずれにカヌーイストの聖地・ユーコン川が流れているからかもしれない。


 ユーコン川流域には、ゴールドラッシュ時代に金を採取するために使われた廃船や廃墟が当時の面影を残しておいる。

 人工的な音は一切ない。

 あまりにも静かすぎて、キーンという静寂の耳鳴りとも言えるような音が聞こえるほどだ。


 “シンプル・イズ・ビューティフル”


 ユーコンの大自然は何も語らず、こう教えてくれる。


ユーコン漂流


 僕はひょんなことから、この町でたまたま出会ったバックパッカーの透君と、ユーコン川をカヌーで旅することになった。


 ふたりで出発してからというもの、川のカーブを曲がるたびに思わず唸ってしまうような風景と出会う。


 もう、写真を撮っている場合じゃない。


 僕たちは、カメラのシャッターを切るのも忘れ、今、目の前にある光景を必死に脳裏に焼き付けていた。


 こうして何日か下っていると、「フィッシュキャンプ」といって、インディアンがこの時期だけキングサーモンを捕るために川岸の小屋やテントで暮らしているところに出くわした。


 僕たちは彼らに頼んで、サーモン漁に連れて行ってもらうことになった。


 網を仕掛けてあるポイントに着いてみんなで網を引っ張ると、体長70センチはあろうキングサーモンが5匹もかかっていて、彼らは僕たちに切り身と卵をプレゼントしてくれた。


 その夜、さっそくイクラ丼と刺身を醤油につけて食べた。

 目の前にはユーコン川がゆったりと流れている。

 最高のシチュエーションだった。


 僕はこの日を一生忘れないだろう。


ユーコン川において重要なのは、最新のニュースより昼飯だ


 数えきれないほどの蚊の大群に襲われ、熊の恐怖に怯えながら迎えた8日目。

 とうとう目的地の村へ辿り着いた。


 8日ぶりのコーラで乾杯し、今度はホワイトホースへ向けてヒッチハイクをする。


 僕たちを乗せてくれた運転手が、小汚い二人を見て「何をしてきたんだ?」と尋ねる。

 

 「僕たちは、ユーコン川を8日間カヌーで旅してきたんだ!」


 そう答えた透君は、何かを成し遂げた後の満足げな少年のような瞳をしていた。





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[2]アラスカのハート

ビリーの笑顔


 旅の始まりでさっそく軽い肺炎にかかってしまった僕は、小休止するために見つけた宿でビリーという女主人と出会った。


 ビリーは毎朝手作りのシナモンロールをくれたり、寝込んでいる僕にわざわざ声をかけにきてくれたりと、自分にとってはやさしい「アラスカの母」のような人だった。


 しかしその2カ月後、カナダを走行中にカヌーイストでビリーの友人だという人に偶然出会った時、ビリーの長男は数年前のアフガニスタン戦争に出兵して命を落とし、彼女は最愛の息子を亡くしたストレスから一時は精神的に不安定になってしまったんだ、と聞かされた。


 その悲しみをそのときは微塵も感じさせなかった。


 ビリーのあったかい笑顔。

 誰もが何かを背負って生きているのだ。


エドとの再会


 10日目の朝。ビリーと抱き合い、宿をあとにした僕は、フェアバンクス郊外にある、自分を病院へ運んでくれた救急隊員のエドのお宅へと向かった。

 彼にもう一度会ってちゃんとお礼を言いたかった。


 自宅前へ着くと、エドはちょうど出かけようとしているところだった。僕が「この前はありがとう」と声をかけると、彼も再会を喜んでくれて、これから始まる河原でのパーティーに一緒に行こうと言う。


 こうして、僕はまた彼のピックアップトラックに乗り込み、今度は病院ではなくパーティー会場へと向かった。


 そしてパーティーの帰り道、彼の家の裏を流れている小川にカヌーを浮かべて乗せてもらった。

 アラスカに魅せられて、数年前にアメリカ本土から家族で移住してきたんだ、そうエドは言った。


 結局、その日はエドの家に泊めてもらうことになり、夜は焚き火を囲みながらいろんな話を聞いた。

 エドの奥さんのアネがアラスカのエスキモーの村で学校の先生をしていた話。

 キャンプ中にグリズリーに遭遇した話。

 冬のアラスカとオーロラの魅力。


 リアルな話に時間が経つのも忘れ、ふと気がつくと午後11時になろうとしていた。

 しかし、辺りはまだ明るい。夏のアラスカの一日は長いのだ。



カヌーを担ぎ、ビーバーの造ったダムを越えてエドと記念撮影



 「オーロラの時期にまた会おう」。

 そう言ってエドと固い握手を交わし、翌朝僕は彼の家を出た。
 お昼には、アネが持たせてくれた特大サンドウィッチをバッグから取り出し、「ありがとう」と言いながら頬張る。

 “cold place warm heart”

 アラスカに伝わるこの言葉を思い出した。




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[1]ラストフロンティアを走る

僕の旅が始まった


真夏のアラスカが14,873キロの旅のスタート


 アメリカ合衆国のアラスカ州第2の町、フェアバンクス。


 2007年6月、アンカレッジをスタートして10日後に僕はこの町に辿り着いた。


 予想に反して、すごく暑い。北緯64.83度にあり、冬にはオーロラを見ることができる町に来ているとはとても思えない暑さだ。


 調べてみると、フェアバンクスなどアラスカ内陸部では夏と冬の気候差が激しく、冬はマイナス30度にもなり、川も車が通れるほど完全に凍結してしまう。


 だが、一方で夏は22度まで温度が上昇する。

 最高気温は33.9度という記録があるそうだが、僕が見たアラスカ州立大学フェアバンクス校の温度計はその日、なんと32度を指していた。

 

 あと数ヶ月したら「氷の世界」がやってくるとは、とても想像できなかった。


白夜の大地をハイペースで走り始める


 自転車で北南米大陸を走ろうとアラスカにやってきた僕にとっては、これが初めての海外の旅だった。


 針葉樹の森を貫いて一直線に延びる道。

 ペダルを漕いでいると突然現れる大小いくつもの湖。


 エメラルド色に透き通る湖の美しさに魅了され立ち止まると、体長2メートルはありそうなムース(ヘラジカ)が森の中から顔を出す。


 ゴールドラッシュに沸いた“ラストフロンティア”。アラスカにはこの言葉がよく似合う。


 今回の旅は、1年かけてアラスカから南米大陸の最南端の町・ウシュアイアまで自転車で走る計画である。

 途中、中南米は飛行機でパスするが、計画通りに走ると総走破距離は1万4千キロを超える。


 十年越しの夢の実現を目の前にし、僕は張り切っていた。


 すべては順調に進んでいたが、ハプニングが起きたのはそんなときだった。


 フェアバンクスを出てすぐに体調がよくないことに気づき、無人のキャンプ場を見つけてその日は走るのを早めに切り上げた。

 しかし翌朝、体調はさらに悪くなっていた。


 悪いことは重なるもので、キャンプ場にある熊避けのためのフードボックスに入れておいた新品のバッグをリスにズタズタにされた上、中に入れたあった食料の半分以上を食べられてしまった。


 そして熱が下がらないまま迎えた4日目の朝、とうとう食料が尽きてしまった。


救急車で病院に搬送される


 初めての異国の地で周囲は無人のうえ食料もなく、このままでは死んでしまうかもしれない、と真剣に思い始めた僕は、大げさかもしれないと思いつつ助けを求めようと、テントのファスナーを開けて外を見た。


 すると、サイレンがついた車がこちらに向かって走ってきている。

 僕は自分の目を疑った。


 一日に一台、車が通るかどうかの交通量しかない無人のキャンプ場に、一台の、しかもパトカーが現れたのだ。


 僕は唖然としながらも急いで駆け寄り、身振り手振りと片言の英語で必死に現状を伝えた。


 こうして救急車を呼んでもらうことができ、しかも救急車には乗せられないと一旦は断られた僕の自転車のために、隊員の一人がわざわざピックアップトラックを調達してくれたおかげで、僕と自転車はフェアバンクスにある病院へと向かうことになった。


 診断は軽い肺炎だった。


 薬をもらってすぐに退院できたが、最低1週間は自転車に乗ってはいけないと言われた。


 旅はスタートしていきなり小休止となり、転がり込んだ宿でしばらく養生することになる。ここで、僕にとって「アラスカの母」となる宿の女主人・ビリーと出会うのである。




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